昭和四十五年七月十五日 朝の御理解
御神訓 一、「障子一重がままならぬ人の身ぞ。」
ここのところの実感というか、そこのところが分からせて頂く、そこから縋らなければおられない、又は、願わなければおられないという事になるのです。
そこでその次に「まめなとも信心の油断をすな」と、又はその前に「心配する心で信心をせよ」と言ったような御教えが続いておりますが、ある先生にある人がお尋ねをした。信者の中に平穏無事でおかげを頂いておる時ほど、取次者は心配だ。何か心配事でもあって難儀な事に直面したりしておる時に、一生懸命信心が出来ておる時なら、その時は決して心配はいらんと言われたという事ですが、その通りだと、こう思います。どういう難儀な問題であっても本人が一生懸命の信心が出来ておる時ならば大丈夫。但しおかげを頂いて、いうならやれやれといったような状態の時が一番心配だ。ですから「まめなとも信心の油断をすな」という訳であります。ところが私共としては本当いうたら、平穏無事で商売をさしてもらっておるなら商売が只、繁昌の一途をたどっておると家庭の中にもそう心配が無いといったようなおかげを願わない者はいません。又、私共もそれを願っておる訳です。そういう時ほど心配だと。
今日、私御神前で淀菊という今頃咲く花ですねえ。その花を頂いたんですけれども。淀という字はさんずいに定まるという字が書いちゃるですね、確か。きくは菊です。いわゆるさんずいといえば、これはおかげという事でしょう。おかげが定まった。その時にはやはり菊ですかねえ。いわゆる合楽の信心のシンボルのようにいわれております。本当におかげを頂いてこのようなおかげが受けられておると、いわゆる有り難し勿体なしがそれを維持いていくと、信心の油断をしようと思うても、このおかげを思うたら油断の出来る段じゃない、いよいよ一段といわゆる有り難い有り難い信心が出来るようになる、というところに私共のおかげの目指しというか、又は天地の親神様の「氏子信心しておかげを受けてくれよ」とおっしゃるところも、そこにあるのです。ところが人間は得手勝手な者で、難儀な時は一生懸命、けれども少し楽になるといわゆる信心の油断をする。それがどういうところからそういう事になってくるかというと、いわゆる「障子一重がままならぬ人の身ぞ」という事の事実ですねえ。そういう実感が少ない、又はないからであります。ここまでおかげを受けたからもう大丈夫だといったような気持ちが信心の油断になってしまう訳ですねえ。
昨日、椛目の宮崎さんが夜の御祈念に参ってみえまして、東京に行っております息子さんから手紙が参りました。大塚製薬の就職試験を受けた。もう手紙の中に書いてあるのに、世の中の荒波とかいうような事をですねえ、もう初めて就職試験に行って世の中の冷たさというものを初めて知ったと。それこそ大学は出たけれども、いうならば大学卒業、そして就職そして次々と心の中には夢がいくらもある事だろう。その夢がもういっぺんにさめてしまうように、もう本当にそのいよいよの時になったら「人間ちゃこんなに冷たいもんだろうか」と思うくらいに冷たい取り扱いを受けて、いうなら世の中にガッカリしたといったような事を書いている。だから例えば希望を持っておったその就職試験の事についても、「もうこげな所ならば、もうどげんでんよか」という気になったと。そしたら幸か不幸か第一次試験だけは合格したという通知がきたというのである。
信心のこの辺のところは、おかげを頂くひとつの要諦とでも申しましょうかねどうでもこの会社に就職したい、どうでもこの試験を合格しなければならないと思うと、どうしても人間が緊張致します。けれどもその冷たい事に、途端に直面したから、もうこげん所ならどげんでんよかと思うたら落ち着いて受験する事が出来たという訳なんです。
段々、信心をさせて頂いて分からせて頂かなければならない事は、いつもが自分の知恵とか力ではどうにも出来ないものであるから、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだと、そういう信心からです、「まめなとも信心の油断をすな」とおっしゃる信心の油断が出来ません。又は、心配する心で信心させて頂く、心配が深刻であれば深刻であるほど、熱心な信心が出来る。だからそういう時にはいわゆる実を言うたら心配ではないけれども、平穏無事な時ほどかえって心配だと。私は今日思うのに、いわゆる淀菊ですねえ、いわゆる平穏無事、おかげで繁昌の一途をたどっておる。そういう時ほどです、「有り難い事であるな、勿体ない事であるな」という信心が身についておるおかげを頂かなければならん。それには「障子一重がままならぬ人の身」であるという事をです、本当に分からして頂く信心、分かったら只今申します淀菊的な信心が自然に出来てくる訳であります。
「障子一重がままならぬ人の身ぞ」と、何かこう仏教でいう無常観とでも申しますか、それにちょっと通じたような感じが致しますですねえ。ところが金光様の御信心はそこからが違うのです。本当に自分で出来る事はなんにもないのだと、神様のおかげを頂かなければ実のところ、いうなら箸一本が持てないのだと。神様のおかげを頂かなければ、ここ一寸が実は動けないのだと。まあ、その辺のところまでは無常観といったような感じがします。ところがそこが分かれば分かる程です、信心にいわゆる迫力が出てくるというのが金光様の御信心だと思う。だから、いよいよ有り難い勿体ないものである内容の信心を続けさせてもらわずにはおられないものになってくる。
私は昨日、本当に有り難いお届けを聞かせてもらった訳なんですけれども、昨日、久留米の佐田さんのお届けでしたけれども、毎日、夏期修行があっておりますから朝はご承知のように親子、夫婦で毎日、御修行が出来ておられます。それで昼の修行は昼の修行でお母さんと奥さんが参ってみえられます。そこでご主人の佐田さんも一緒にお参りが出来るといいんだけれども、それが出来ない程しに忙しい。それでもね、何とかしてお参りしなさったらどうですか、自分も参りたいという事らしいのですけれども、もうそれは本当にやっぱ忙しいおかげを頂いておられるらしい。先日からもある商品を販売されるのに、もう佐田さんの店にだけしかない、他の店では品切れをしておるという商品を売っておられた。それが一缶から二円位の利益しかない。奥さんが「お父さん、二百円の間違いじゃないですか」と。「いいや二円」。もう今日は一日それを売られた。もうその事がね、他の人達はそげん儲けもせんものを、という風らしいですから、いわゆる御主人の佐田さんがそれを一生懸命、朝着ていった真っ白なシャツが真っ黒になる位に一生懸命働かれる。その事がね、そうしながらもう有り難うして有り難うしてこたえんとこれで皆さんがより儲けて頂くと思うたら、もう俺は嬉しゅうしてこたえんという話をされたという事を聞きまして、もう私共が一生懸命修行しよったっちゃ、そういう家業の行が出来よるのじゃから、例えば昼の修行が出来なさらんでも、より素晴らしい修行が出来ておるという意味のお届けをしておられます。ですから、そういう信心が身についてしもうたら私は大丈夫だと思う。「もうこげなもん儲かりもせんもんじゃけん、あんたどんが持っていかんの」じゃなくて、やっぱりそれを自分が一生懸命かたげて荷物を積んであげる。それこそ朝着ていったシャツが真っ黒になる位に働かせて頂く。もうそこにはね、利益とか利益じゃないという事は全然ない。こがしこしたっちゃいくらしか儲からんという打算がない。ただただ、実意丁寧神信心がそこに表させておっただけである。そこには、それを修行とも思うてはいない様子を感じる。今、夏期修行が一生懸命ありよるから、親と家内は一生懸命お参りをしよるから、自分はこの事を修行と思うてするといったようなものもない。
私は、今日皆さんにお願いするようにしてお話しているのでございますけれども、障子一重がままならぬ人の身であるという事をです、いつも外さんで済むおかげ、まめなとも信心の油断をせんで済むおかげ、心配する心でなる程、心配の時には一生懸命信心が出来るけれども、そういう時にはむしろ心配はないけれども、まめな時ほど平穏無事な時ほど商売が繁昌しておる時ほど油断が出るものだ。 そこには例えば佐田さんの例をとると、一部の隙もない程しの信心修行が家業の中に出来ておられるというような信心がね、身についたらいよいよ大丈夫だと思います。
「障子一重がままならぬ人の身」自分では何をする事すらも出来ない。ここ一寸が実は神様のおかげを頂かなければ動けんのだという事が分からせて頂いたら動かせて頂いておるという事、その事だけに対する感謝の一念だけでも、例えば利害関係なんかは考えないで、家業の行とおっしゃる、この行が当たり前の事として出来るほどしの信心。
「障子一重がままならぬ人の身」というその前に、俊郎君が実感しておるように、世の中というものはこのように冷たいもんであろうかと思うたという。そういう例えば思いの時にはです、私は神様にお縋りをする心が出来てくるのが金光様の御信心。「あーあもう自分では何にも出来ないのだ」と、例えば失敗をしてみてです、自分の無力を初めて悟った。その時に只「あーあ」というような例えば無常観的な感じだけではいけないというのである。そういう事によって世の冷たさが分かった、そういう事によって人間の無力さというものが分かった。障子一重がままならぬ人の身である事が分かった。そこからお取次を頂いて縋らなければおられん、願わなければおられない。そこからの立ち行きが有り難い、その有り難いものがです、例えば損得にかかわりのない、いわゆる実意丁寧、どのような事の中にも実意丁寧を表していかねばおられないという信心が身についてこそ、私は金光様の信心がいよいよ身についてきたという事が言えると思うのですね。どうぞ。